滋賀県・時計博物館訪問記*以下の写真にもリンク先に大きい画像があります。* ■近江へ■ 時計博物館は近江神宮境内にある。 大津市は滋賀県の県庁所在地ではあるが、いたってのどかな街であり人々はおっとりしている。 街に接している琵琶湖が人を穏やかにさせることもあるだろうが、この街は地理上、京都の続きにあるような街でありその影響が強いことが一番の原因だろうと思う。 滋賀県という県名を先入観とせずに、「京都市大津区」と捉えたほうが実際の印象に近い。 近江神宮への行き方は簡単であり、大津市内の琵琶湖西岸地区の目抜き通りを北上すればよい。 到着する直前に住宅地を抜けるため道が細くなるから、こんな道でいいのか?と少し不安になる。 だがかまわずに進み右手に郵便局が見えたら眼前に森が現れる。 それが近江神宮の鎮守の森である。 そのまま森の中へ入りすぐ左折すれば嫌でも神社の駐車場に着く。 僕が訪問した日は平日ということもあいまって閑散としていた。 駐車場に止まっている車は数えるほどしかなく、好きなところに勝手に止めろ、という感じだった。 駐車は無料である。 駐車料金を1500円くらい取られるかも知れない、と身構えていたこちらとしては拍子抜けした。 僕には<天孫系>といえば伊勢神宮のイメージしかなかった。 近江神宮も規模が伊勢神宮より小さいとは言え、同じ天孫系なのだから、いかめしい警備員の数人くらいはいるだろう、と思っていたがそのような気配もなく、 そのかわりに近所の人と思しき人が気の抜けたような表情で犬を連れて散歩していた。 どうやら思っていたようなところではないらしい。 犬の散歩コースになってることが、和やかさを表象している。 第一印象は地元の神社という感じだ。 「全国区」の伊勢神宮とはえらい違いだ。 むしろ伊勢神宮の、いかめしさ、物々しさこそ異常と言うべきかもしれない。 この近江神宮のように、気軽に来れてこそ落ち着いて参拝できるというものだ。 日本の歴史を決定づけた天智天皇(=中大兄皇子)は間違いなく日本史上最重要人物の一人だが、白村の江の戦いから1300年以上を経た今日 かの人は普段は単に地元の神様に収まっているのかもしれない。 だが一方で、そんな扱いでいいのか? という根本的な疑問は残るが・・・。 ■境内展示物■ 御手洗場を左に見てさらに進み左手に神宮の赤い門へと続く階段を登る。 門をくぐると、さっそく玉砂利を敷き詰めた場所に「日時計」「火時計」「水時計」といった原始時計が<展示>してあるのが見える。 (きた、きた、きたぁー!) この展示物を目にすると目的地に来たという実感が沸いた。 日時計は2種類置いてある。 ひとつは<どこまで何キロか>の表示付き。 京都御所から8キロしか離れていない。 京都からいかに近いかがわかると思う。 もうひとつがよく見るタイプの日時計。 この日の天気は曇りで影が差さなかったのが残念。 日時計の弱点は曇天、雨天、夜間には役に立たないことである。 この形はマットアロー2号を思い出す。(←知らない人は無視してください) 続いてロレックス社が提供したという「火時計」。 ドラゴンがモデルに使われている。 英語ではFIRE CLOCKと言うらしい。 こうやって使ったという説明がある。 それを読むとやはり古代は悠長な時代だったことがはっきりわかる。 いや、上流階級はいつだってそんなものか・・・・・。 受け皿のように見えるが、それドラのようである。 ドラがゴーンと鳴るから、ドラゴンを使ったのかも知れない。(そんなわけない) そして水時計。 思っていたより大きい。 上から全景を写真に収めたかったのだが無理な高さだった。 この漏刻(ろうこく)こそが日本初の時計であることは以前日記に書いた。 時計なるものを初めて日本に持ち込んだのはここに祭られている天智天皇(=中大兄皇子)である。 だから時計博物館は近江神宮境内にあるのである。 その漏刻(ろうこく)が稼動開始した6月10日(太陽暦)を記念して「時の記念日」が設定されている。 だが、そのレプリカをオメガ社が寄贈していたことはここに来て初めて知った。
■時計博物館■ 時計博物館は境内左手にある無料休憩所の2階である。 そこを目指す。 わくわくする。 受付では割烹旅館のおかみさん風の女性がふたり世間話をしていた。 入場料は300円。 お金を払って階段を登る。 係員一人としていない。 完全に無人である。 ご自由にどうぞ、というところか。 セキュリティーをどう心得てるのか、とつっこみたくもなったが、まあ、考えてみれば気楽でいい。 先客もいない。 要するに今ここにいるのは、まったくの僕一人である。 (うひょひょひょひょ~)な心境になった。 これは気兼ねなく過ごせそうだ。 館は全く飾り気がなく地味そのもの。 博物館と呼ぶには小さい部屋であるが、展示物もまた懐中時計、腕時計といった小さな物が中心なのでじっくり見ていると意外に時間が掛かる。 僕の場合1時間弱の所要時間だったが、もっと時計に詳しい人なら2時間あっても足りないかもしれない。 時計博物館に展示されている品々は、寄付、寄贈された物ばかりで成り立っている。 一番多い展示物は「懐中時計」である。 明治、大正、昭和とそれぞれ時代区分をつけて館中央のガラスケースに展示されている。 一つ一つの時計に<~に住む誰々氏寄贈>と書かれた札が置かれている。 どれもこれも作りが丁寧なのが、素人の僕でもわかる。 手を抜いていない。 その丁寧な作りに気を取られ思わず見入っていると、止まっている展示品の時計のように僕の頭の中の時間も止まる。 所々錆びている物や、中には風防の取れた物もあった。 だがそんなことは僕には問題でなかった。 それは、それぞれの懐中時計とその元の所持人(多くは故人だろう)との密接度を、それらの懐中時計を見た瞬間から感じるからだろうと思う。 (時計とはこういう風に付き合うものなのだよ) 古ぼけたどの時計もが、そう僕に言っているような気がした。 しばし、沈思黙考。 クラシック風な新品の腕時計が売られているのを巷では目にするが、この博物館に寄贈されている「本物の」クラシックに比べるとそのどれもがいかにちゃちな物であるかを思い知らされる。 重厚感が基本的な部分で違うのである。 (本物のクラシック時計はお金では買えない) 僕はそんな感想を持った。 どんな時計だろうが、その所持人の人生と密接に関わり苦楽を共にして長年を過ごし、やがてその時計の型が古くなり後世クラシックと呼ばれる・・・。 人間と共に歩んだ時計だけがクラシック時計と称せられるにふさわしいのではないか。 だからこそ長年の使用に耐えられるような強靭な時計が求められるし、それには作りの緻密さが求められる。 一方で、これは人間性とも関わってくるだろうが、使う人間にもそれ相応の丁重な扱いが長年にわたって求められる。 そのように出来上がった時計が、そのように扱う人間と出会ったときに初めて長い年月を生き抜く条件が整い、それらが結果として後世、クラシックとか、ビンテージとか呼ばれる。 クラシック、もしくわビンテージに価値があるのは、時計そのものよりもむしろ時計の使われ方なのではないか。 昔は時計といえば、言わずもがなの高級品であり、一人ひとつ持つのがやっとだったと聞く。 僕も小学生の頃初めて腕時計を買ってもらい大事に使っていたし、たまに学校につけていくと注目されたものだ。 もっと昔なら、もっと高級品として扱われていただったはずだ。 時計博物館に並べられているような時計が大事にされたのには、そんな昔の事情が必然的に絡んでいるだろう。 それが今ではまったく事情が違う。 僕のように安い時計をいくつも買い集め、その日の気分、服装、用途に合わせて毎日のように<着替える>人はあちこちにいる。 それはそれで有難いことだが、そのように物があふれていてはかえって手に入りにくい喜びのあることもここの展示物は気づかせてくれる。 そして<物があふれていてはかえって手に入りにくい喜び>とは、人間にとっては思いのほか貴重な感覚なのではないか、という不安にも似た思いがよぎる。 どっちの時代が幸せかは、とても一概には言えなさそうだ。 さて、沈思黙考はこれくらいにして・・・ 次に多いのが腕時計。 セイコー、シチズン、オリエント、はもちろんのこと、カシオ、それに珍しいところではリコーといったメーカーからの寄贈もある。 なつかしのカシオトロンは箱つきで展示されていたし、シチズンの初代電波ソーラー腕時計もカシオのGショックなどと共に展示されているのが見られる。 ここの博物館には歴史に名を留めるであろう比較的新しい技術もちゃんと予見的に歴史に加えており、懐古主義に陥ってない点で感心できた。 海外メーカーからはロレックス、オメガ、ロンジン、といった名前を目にした。 ロレックスからは「解剖標本」とでも呼べるような面白い展示物もあった。 これらを組み立てると1個の時計ができるのだそうだ。 ちなみに文字盤には「oyster perpetual」と書いてあった。 海外メーカーの中で意外に多く目に付いたのが、今は亡きウォルサム。 ウォルサムはもう倒産したメーカーだがかつては日本でも人気があったのかも知れない。 ウォルサムの展示品で感動したのが置時計。 この置時計は身の丈180cm、体重100kgはあろうかという代物で、現代の誰もが枕元に無造作に置いているような目覚まし時計の類とは分野の違う置時計なのである。 デカイ。 昔、子供の頃法事に行ったお寺にこんなような置時計があった気もするが、記憶はあやふや。 「家」と呼ぶよりは「屋敷」と呼ぶにふさわしい建物にしか似合わなさそうな一品。 それはしっかり動いており<ゆら~ん、ゆら~ん>という感じでゆったりと振り子が動いているさまはなんとも優雅だった。 「今」の時を刻んでいるいるはずなのだが、まるで「100年前」の時を刻んでいるかのような錯覚に一瞬おちいってしまう。 ウォルサムの置時計は、少なくとも2つ置いてあったと思うが、もうどちらも前時代の遺物である。 そもそもウォルサムという会社自体が遺物だ。 そのあたり、博物館ならではの展示品と言える。 博物館ならでは、と言えば出口近くに「珍品」と呼んでもいいような時計も置いてあった。 直径2センチほどの鉄の玉が20個くらい入っていて、それが1分に1個「観覧車」に乗って最上段に運ばれると、「観覧車」から放り出された鉄の玉は「滑り台」の上を転がり落ちてくる。 右に左に転がってきた玉は下段に溜まり、5個になるとそれらが一気に転がり落ちる。 そのうちの1個が今度は「5分計」の段に収まり、残りの4個が元の場所に転がり落ちていく・・・。 こんな要領で鉄の玉が時間を示すという、いわゆるカラクリ時計。 ブラジルからの寄贈らしい。 <重り時計>とでも呼ぶべきものもあった。(名前が付いていたが忘れた) こいつは重りが落ちようとする力を利用している。 歯車は紐(ひも)でコントロールされていて、ひもの先には遠心力を得るために小さい丸い木製の玉が付いている。 ひもは2本ある。 そのひもはそれぞれ複雑な経路を辿りそれぞれ1本づつの棒ににまとわり付くようになっているのだが、まとわり付き終わった瞬間から今度は解け始める。 一方の棒からひもが解け終わると、次に2本目の棒にもう一本のひもがまとわり付き始め、まとわり終わると同じく解け始める。 一本の棒にまとわっては解け、それが終わると隣の棒に別のひもがまとわっては解けるわけだ。 そうすると、うまい具合に歯車の1つの山に引っ掛かっていたひもが外れて、重りの重さで回転してきた歯車の次の山にカタンッと引っ掛かって歯車は回転を停止する・・・。 これを延々と繰り返して時を刻むわけだ。 (↑)読み返してみると、なんともヘタな解説だ。 やはり言葉で説明するのは僕の能力では限界がある。 御容赦願いたい。 だが見ていて飽きないし、大きい時計なので時計の動く基本的な仕組みが目で見て理解できる点では必見と言える。 機械式腕時計なら、落ちようとする重りは、ほどけようとするぜんまいの役割だし、木製の玉が付いた二本のひもはテンプの役割だ。 紐の長さを長くすると、時計の進みはゆっくりになる。 たくさんの腕時計、懐中時計の他に、ここには<和時計>なるものも展示してあった。 宮崎アニメの「かおなし」を連想する風体で、動く仕組みがよくわからず興味が持てなかった。 また壁には時計がらみの絵画、壁掛け時計が飾ってある。(上写真参照) 壁掛け時計ではセイコーの製品に「SEIKOSHA」のロゴがあるものがあり面白い。 珍しい物では昔のパンフレットや修理代金表(料金の単位は「銭(せん)」)なんていうのもあった。 時計博物館はざっとこんな感じである。 結局僕が見終わるまで来客はなかった。 独り占めできてラッキーだったと思う。 一階の売店では、なぜかユンハンス(=Junghans、 ドイツの会社。電波時計のパイオニア)の壁掛け時計を売っていた。 そしてなぜかそれらは電波時計ではなかった。 また、記念スタンプを押すコーナーもある。 小さな子供を連れて来ると、喜んでスタンプを押したがるかもしれない。 ちなみに僕は一人で来たが、大喜びで全部のスタンプを押して持ち帰った。 建物の外へ出てからあらためてその概観を見てみるとただの物置小屋くらいにしか見えない。 それくらい外観は地味である。 いや、外観だけでなく中も地味と言うべきか。 時計が好きでなければ別段面白くもないはずだ。 だが、あのミクロの世界が好きならここは宝の部屋である。 ■終りに■ 振袖の格闘技とでも呼ぶべき正月恒例の<百人一首大会>が開かれるのはここ近江神宮である。 毎年テレビでニュースになるのはなぜか女性(クイーン)ばかりだが・・・。 このカルタ取り大会がここで開かれるのは、百人一首の筆頭が天智天皇の歌であることにちなんでいる。 「秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ」 がその歌。 こう見てくると、もう少しメジャーな神社であってもおかしくない気もするが、古都京都の近くにあっては相対的に輝きが失せて見えるのかも知れない。 もっとも、低俗な観光地になってしまうのは全くいただけないので、その点では現状の方が個人的には歓迎している。 時計博物館。 ここは泊りがけで来る所ではないかもしれないが、もしあなたが時計好きを自認していて近くに来る機会があるなら立ち寄ってみるだけの価値はあると思う。 是非見学時間をしっかり見込んで行ってみて頂きたい。 2008年4月8日 ジャンル別一覧
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